芭蕉は俳句を広めて“俳聖”と言われて居ます。 あなたも曄歌youkaを広めれば“曄聖”と言われる人になります。 あなたには俳聖と並び称せられる人物になれる機会があるのです。 |
中國の為政者が危惧したのは、外国の文化流入が中國人民の思想に影響をもたらさないかという為政上の懸念であった。 私は鋭意、日本の詩歌が思想の記述には不向きな形態である事を陳べた。斯くして曄歌youkaの意とする処が中國の為政者に理解されたので、、茲に中国全土で曄歌youkaの認知普及活動に努めることが出来た。 例えば俳句は、仮名十七文字数で構成され、是では複雑な思考を要する為政思想を陳べるには、余りにも短小すぎるのである。 因って俳句の本家本元の日本でも、花鳥風月と眼前の喜怒哀楽を陳べるに留まり、為政に関わり有る作品を見たことがないと説明した。 かと謂って、日本人はこの短小な俳句と言う詩形を使うことによって、小学生から大家まで、それぞれが活用し、充分に満足しているのである。 この思考を持ち出す前に、なぜに俳句か、なぜに曄歌youkaかと言う問題がある。 国際文化交流を計劃するにあたり、交流する人員数、即ち頭数の問題がある。漢民族は十億人、日本人一億人とすれば、百人や二百人で国際交流と言えるだろうか? いま耳にする国際交流はおまりにも小規模で、お世辞にも、“私は国際交流をしています!”などとは言えないはずだ。 言葉の壁があるから文通はダメだし、中國の政権が許さない! 絵画は誰にでも描ける訳では無い。 歌唱も出来る“ひと”は少ない。ただ今日ではスマホの活用によって負担は軽減されたが、何れせよ対応は無理である。 其処でこれらの難関を解決するために考案されたのが、詩歌の発明である。日本にも漢詩創作の能力はある人は居る。だが指導者から離れて自作出来る“ひと”は何人居るのか? その殆どは自己満足詩人である。 然も日本でしか通用しない作品を作れても、其れはどう評価したら良いのか??……。 それなら何を橋梁に使うかという問題である。其処で私は発明した。 間違えたくても間違えないほどに簡単な定型詩歌を発明すれば良いでは無いか……。 其れが“俳句”の漢字書き“曄歌”youkaである。 こう言う作品を送られた漢民族はどう理解するだろうか。 曄歌youkaは日本人にも初体験だが漢民族にとっても初体験なので、どう解釈して良いのか余り解っていないから……。 だが、漢民族の定型詩歌、日本で言うところの漢詩は、下手は下手なりに評価されるので、要注意。 定型詩歌を創ろうという“ひと”は、拙著のテキストを理解してからにする事を勧めます。拙著は漢民族指導者から獲得した情報を基本に編輯しています。 その一部は漢語版として中国国内でも使われています。 テキストは“楽天電子版”で、無料発売して居りますのでご活用下さい。 新発明なのだからどんな定型でも構わぬのだが、矢鱈に創ったら嗤われるだけなので、取り敢えず俳句を借用して“俳句の漢字書き”詩歌とした。 この説明をお読みになって馬鹿馬鹿しいと思ったでしょう。是はコロンブスの卵です 私の提案は中國のみならず、東南アジア諸国、欧米の華僑詩詞壇でも同様の話をしました。当初は耳も貸しませんでしたが、回を重ねる毎に其の意義を理解しました。 さて曄歌youkaを創ってみましょう 小学生 春夏秋冬 日々新 枝頭柿 寒風野鳥 農婦愛 路傍草 車塵犬糞 花鮮鮮 弄人心 不捕賊鼠 狗和猫 春夜月 夏虫秋声 冬朝風 【註】この書き方は間違っているかも知れません。だが外国人が書くのですから是で良いのです。 この位の作品なら、詩心の無い人“ひと”でも直ぐに出来ます。「春夜月 夏虫秋声 冬朝風を春朝風 夏虫秋声 冬夜月」と入れ替えてみるのも一工夫だ。 曄歌youkaの達者は何処にも居ないのだから、上手に出来たか拙いかは、他人が批評する事では無い。 巧い拙いはご自分で判断するだけで十分である。 気楽な作品作りである さあ! お構いなしにどんどん創ってみよう! 仲間を集めてどんどんと創って、自慢し合おう! そして“曄聖”に成ろう 私は文化人に言われた! 私はそのことを知っている。 交流の始め方 中国語の口語;は難しいですが、書面語はちょっと器用な“ひと”なら、日本人にも書けます。 中国語講座でやっている中国語は小学生用ですから、テレビ講座にこだわる必要はありません。 書面語は日本の漢字と殆ど同じで意味も同じです。文法は英語と同じで、動詞を手前にするだけです。 其れも心許なかったら、出来るだけ漢字を使って日本語で書いても八割り方意味は通じます。 詩詞壇に投稿するのなら、意図はは解っているのですから、日本語で書いても自由分に通じます。 詩詞壇に籍を置く方々は高学歴な方ばかりで、会話は無理でも読み書きは出来る“ひと”が多いのです。 中國の文化官僚から言われた
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